第三回 北区の読書会 第一部 開催報告 | 本人訴訟日記(以前→過払い金請求日記)

第三回 北区の読書会 第一部 開催報告

第三回 北区の読書会 第一部 開催報告



7/27(日)10:00~12:00

課題図書『山月記』




キャラクター分析から、

李徴

■自虐的な思考が顕在化
■プライドの高い人
■羞恥心の塊
■内省的すぎる
■変化を嫌う



袁傪

■素直な人
■周囲からの信頼が厚い人
■誠実で男気がある
■一流人
■八方美人
■受け身的
■差別意識が無い


テーマ分析から、

■人としてどうあるべきか⇒一流でありたいというプライドを優先するよりも家庭や大切な人の気持ちや生活を優先するべきである。





面白かった意見は、

■李徴を夜中に呼んでいた声は、神や仏の声ではなくて、単なる幻聴であった。よって、虎になったというのは李徴の妄想であり、気が狂った李徴に袁傪一行は合わせてあげただけではないのか?

■インドネシアでは、人食い虎はもともと人間であって、人間に戻るために人を食わなければならないという迷信が伝えられているらしい。

■原典となる『人虎伝』では、虎になった理由が不倫の末の一家惨殺であるとなっている。

■人間であるときに、袁傪が李徴を救うことができなかったのだろうか?袁傪にとって李徴だけが友人であるわけがなく、差別意識がなく八方美人的で受け身で自分の出来る範囲でしか行動しない袁傪が、事前に李徴を助けることはできるはずがないだろう。

■李徴はなぜ結婚して子供を産んだのか?少なくとも、妻子を自分なりに愛していた。自分のエゴが優先されていたが、李徴の考える家庭の幸せとは、「主人が一流となって名声やお金を持つことで家庭が豊かになる」と定義していた可能性がある。食えなくなって再び役人になったり、袁傪に妻子の生活を依頼したりしていることから、欠情な人ではないのだろう。しかし、家庭の幸せの定義がずれていたのは痛いことである。

■李徴は実は全く自分の詩を世に出したことがないのではないか?世に出さなければ、文名が上がることがないのは当たり前である。世に出そうという寸前にな ると、羞恥心が鎌首をもたげて、出し渋らせてしまうのではなかったか。もし、出していれば、誰かがその素質を見ぬいていた可能性がある。

仏教の輪廻思想があるが、前世の行いが今に引き継がれている。








今回、山月記を読書会で扱って、あ!っと思ったのは、李徴は虎になっていないのではないかという考えです。

単なる精神病により、自分が虎になったと思い込んでいるだけで、その様子を見た袁傪が口を合わせてくれただけだったということ。

この発想はありませんでした。

また、袁傪に一流作品には足りないと思われたけれども、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡と素質が一流であると認められていました。すると、もっと文名が上がっても良いのではないかと思いました。しかし、実はあまりにも羞恥心が尊大で誰にも自作の詩を見せたことがなかったのではないかと気づきました。

この発想は読書会で話し合っているときに浮かびました。




読書会は、拾いようによっては違う物語が見えてきます。カラーの違う山月記が現れてくるところがオモシロイのです。

これからも作者の示しているテーマを超える読書会を目指していきたいと思います。

今回も3時間きっちり話すことができました。